臨済宗相国寺派

関連人物

夢窓 疎石

むそう そうせき:1275 – 1351

夢窓 疎石

伊勢の人。道号は夢窓。法諱は疎石。 臨済宗天龍寺・相国寺の開山国師。
九歳にして得度して天台宗に学び、後、禅宗に帰依。高峰顕日に参じその法を継ぐ。
正中二年(1325)後醍醐天皇の勅によって、南禅寺に住し、更に鎌倉の浄智寺、円覚寺に歴住し、甲斐の恵林寺、京都の臨川寺(リンセンジ)を開いた。歴応二年(1339)足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建立すると、開山として招かれ第一祖となり、また、国師は争乱の戦死者のために、尊氏に勧めて全国に安国寺と利生塔を創設した。夢窓は門弟の養成に才能がありその数一万人を超えたといわれる。無極志玄(ムキョクシゲン)、春屋妙葩(シュンオクミョウハ)、義堂周信、絶海中津(ゼッカイチュウシン)、龍湫周沢(リュウシュウシュウタク)、などの禅傑が輩出し、後の五山文学の興隆を生み出し、西芳寺庭園・天龍寺庭園なども彼の作庭であり、造園芸術にも才があり巧みであった。また天龍寺造営資金の捻出のため天龍寺船による中国(元)との貿易も促進した。後醍醐天皇をはじめ七人の天皇から、夢窓、正覚、心宗、普済、玄猷(ゲンニュウ)、仏統、大円国師とし諡号(シゴウ)され、「七朝帝師」と称され尊崇された。

疎石の系図

春屋 妙葩

しゅんおく みょうは:1311 – 1388

春屋 妙葩

甲斐の人。南北朝時代の臨済宗の僧。道号は春屋。別に芥室(カイシツ)、不軽子(フキョウシ)とも号す。諡号(シゴウ)は知覚普明国師。臨済宗相国寺の第二世。(事実上の開山国師)
夢窓疎石のおい。十七才の時夢窓について出家。中国の元から来朝した僧、竺仙梵僊(ジクセンボンセン)と清拙正澄(セイセツショウチョウ)につき大陸禅を学び、ついに貞和元年(1345)夢窓の法を継いだ。正平十二年/延文二年(1357)京都等持寺に住した。翌年天龍寺が焼失したが、その復興を成し遂げた。その後京都臨川寺、阿波光勝院、京都伏見の大光明寺、天龍寺に住したが、正平二十四年/応安二年(1369)南禅寺山門破却事件(旧仏教と禅宗との抗争事件)の時に、管領細川頼之と意見が衝突し、丹後の雲門寺に隠棲した。やがて十年のち細川頼之の失脚により京都に復帰し南禅寺に住し、更に、初代の天下僧録司に任命され禅宗寺院を統括した。その後足利義満の庇護を受け嵯峨の法幢寺(ホウドウジ)を開いた。義満が室町御所の東隣りに坐禅弁道のため、仏道修行の場として相国寺を創建するや、春屋の才能を高く評価していた義満は、相国寺開山第一世として彼を請じたが、春屋の謙譲の徳深く固辞され、やむなく『先師の夢窓疎石を追請(ツイショウ)して開山始祖とするならば、第二世の住持を掌(ツカサド)ります』という春屋の言を受け入れざるをえなかった。義満の仏弟子としての帰依厚く、夢窓派の中心人物として五山・十刹制度などの体制作りに貢献し、五山版の印刷事業をなすなど五山文化の発展に寄与した。

妙葩の系図

足利 義満

あしかが よしみつ:1358 – 1408

足利 義満

室町幕府三代将軍。二代義詮よしあきらの長子。 法名 鹿苑(ロクオン)院殿天山道義大居士。臨済宗相国寺の大檀越(ダイダンオツ)。
貞冶六年/正法二十二年(1367)父の死で家督を譲られ翌年十一歳で征夷代将軍となるが、管領細川頼之に補佐された。父祖の例を超えて内大臣に進むと、摂関家にならい、武家としてはじめて准三宮を与えられ、公武を統一する支配者の道を歩み始め、大守護を弾圧して権力を幕府に集中し、将軍家の地位を高めた。 明徳二年/元中八年(1391)山名氏清を滅ぼし、翌年南北朝の合一を達成した。応永元年(1394)将軍職を辞したのち太政大臣に任じられたが、翌年出家して道有(のち道義)と号したが、なお依然として政務を見た。応永四年(1397)洛北の北山に三層の金箔の舎利殿(金閣)をはじめ多数の殿舎からなる北山第を造営して、ここを政庁に兼ねて公武貴族の社交の場とした(後の鹿苑寺(ロクオンジ))義満は出家の前後より法皇なみの格式で内外の儀式に臨むことが多くなり天皇家との一体化を進めていき、応永八年(1401)明に国書を送って国交を開き、日本国王と認められた。没後、朝廷は太上法皇号を贈ろうとしたが、子義持はこれを固辞した。 自らも熱心な仏道の求道者であった義満は、明徳三年(1392)四季の花や諸家から召し上げた名木で飾られた室町第(花の御所)の東隣に一大禅苑を造営した。これが相国寺(ショウコクジ)である。また春屋妙葩(シュンオクミョウハ)や義堂周信らの禅傑を重用し、禅宗寺院の統制の為、五山制度(五山・十刹・諸山)を整備した。自身も和歌・連歌・書に秀で、猿楽を好んで世阿弥を愛し、中国渡来の文物を愛玩するなど、文化の面でも傑出した指導者であった。

足利の系図

独園 承珠

どくおん じょじゅ

独園 承珠

明治元年(1868年)明治政府によって、神仏分離令が発布されました。それによって仏教排斥の運動がおこり、神仏混淆の立場にあった寺院は被害をうけました。これが世にいう廃仏毀釈です。寺は廃棄され、仏像経巻は焼かれ、壇信徒は仏壇まで焼かれ神道にさせられた藩さえありました。
明治5年、明治政府は教部省を設置し、
(1)敬神愛国の旨を体し、(2)天理人道を明らかならしめ(3)皇上を奉戴して朝旨を遵守せしむきこと という3条の教則を神仏ともに布教綱領としました。これによって、仏教は自由に仏教の宗意を布教することができなくなり、神官に隷属する形となりました。
このとき当時の教部省に厳然として信教の自由を認めるよう抗議したのが独園承珠でした。独園は、寺は壊されても仏法は壊すことははできない、人の建てた寺は人によって壊されてもやむをえぬが、法界本有の仏法は、人がこわすことはできないという信念のもとに廃仏毀釈を防ぐには、何人も壊すことができない確固たる信念の人物を養成することであるという趣旨のもと各宗派に呼びかけて明治5年芝増上寺内に大教院を設立しました。後にここからは多くの人材が輩出しました。

総持寺の諸嶽奕堂と共に教部省へ赴き、仏教の宗意を解き明かすことの許可をもとめましたが、教部省の大輔、宍戸たまきは3条の教則を固守して譲りませんでした。独園は3条の教則が仏教の宗旨ではなく宗祖が立した教義が宗旨であり、もし仏教が宗旨を説くことができないのなら、神官も神道をとくことは許されないであろうと訴えました。ほとんど連日のように説いてゆずらず、とうとう明治6年教部省は信教の自由を認めたのでした。
 独園は、政府の圧力に屈せず、不退転の決意で仏教の教義を説くことを守りました。仏教各宗派との連携、仏教を担う人材の育成、政府に対する抗議行動、そしてけっして退かない交渉力は、独園の仏法護法の烈々たる熱意を語っています。
 独園は備前岡山の出身で、おじさんが禅僧であったため、その導きで8歳で出家、13歳で得度しました。18歳で豊後の儒者帆足万里の門に入り、6年学びました。23歳で京都に上り相国寺僧堂で「鬼大拙」の異名のあった大拙承演につきました。大拙に侍すること十年余りで印許を得ました。この間の修行ぶりはすざまじく、僧堂の周りのカラタチの生垣の刈り込まれた上で坐禅したといわれています。
 安政2年37歳で相国寺山内の心華院(大光明寺)住職となました。相国寺住持となったのは以外に遅く明治3年52歳のときでした。
 荒れていた大通院(僧堂)を復興し、由緒寺院豊光寺を復興してここを隠居所としました。
 明治17年各宗諸氏と謀り京都に共済金を設け貧民の救済と子弟の教育にあたりました。また広く山門を開いて求道の人々に参禅を機会をあたえました。
 また、財政の危機に瀕した相国寺を立て直すために伊藤若冲の描いた花鳥画30幅を宮内省に献じて金壱万円の下賜金を得て相国寺の維持金としました。それを資金に境内地一万八千坪を買い戻しました。伊藤若冲の不朽の名作は国の内外に流出するという難を逃れ、宮中に宝蔵されています。独園の大英断でした。またキリスト教を創立の精神とする同志社大学に土地を貸すことを決めたのも独園でした。
 明治28年7月3日、本宗7派共同で日清戦争戦没者追悼会を催し導師を務め、法会を終わり、豊光寺に帰ってから後、発病しました。療養に努めましたが、明治28年8月10日午前7時独園は自ら起きて筆と紙を求め、偈を書きました。
  初世と末期と一等同商量
  誰か知らん期の苦味
  閻王と共に商量するに足らん
となし筆を投じて示寂しました。法寿77歳でした。
続禅林僧宝伝によれば独園は容貌温和、喜怒をみせず、寛大、食に好悪を選ばず、衣服も繭物をさけ、麻布を召さるるを常としました。
明治政府が称姓の制をしいたとき、僧侶も姓をなのるようになり、各宗派の管長は華族とする論議が起こりましたが、独園はこれに反対しました。
「華族でなければ威厳が保たれないというのなら、もし管長を退き華族を奪われた時、威厳を失墜することになる。また平民であるからといって、どうして屈辱されねばならないのか。」
と論じました。
十余年におよぶ大拙のもとでの修行中、雪の降る夜、堂外で夜座をし、かたわらに持鉢とおいて雪をうけ、積もればあけ、あけてはうけて深更にいたりました。
「もし一大事を明めることができなければ、あえて退転せず。」
と心に誓いました。決死不退転の求道の決意でした。
また明治20年、古希の祝いとして、利休7種茶碗の中の銘「臨済」(初代長次郎作)赤茶碗を真清水蔵六に写させて、「萬年楽」と直書して記念とした風流な一面もありました。現在萬年楽茶碗は大光明寺蔵です。これと同じく、「萬」「年」「楽」とひとつひとつ書かれた三つ組み盃は豊光寺に残っています。明治22年5月方丈の開設にあたり、この盃を使い始めたと箱の裏に書いてあります。
門下に寛量思休、東嶽承晙、瑞雲義寛、盤竜禅礎等があり、参禅の居士に伊達千広、鳥居得庵、桐野利秋、山岡鉄舟等があります。

著書 近世禅林僧宝伝三巻 退耕録三巻

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無学 祖元

むがく そげん:1226 – 1286

無学 祖元

鎌倉時代に宋から来日した。仏光派の祖、鎌倉円覚寺の開山。号は無学、字(あざな)は祖元。諡(オクリナ)は仏光禅師。円満常照国師と追諡(ツイシ)される。明州(浙江省)の人。径山(キンザン)の無準師範に師事し、その法を嗣ぐ。天童山で環渓惟一(イイツ)の教化を助けていたが、北条時宗(ホウジョウトキムネ)が使者無及徳詮・宗英(ソウエイ)を遣わして名僧を招き、これに環渓の推挙を得て応じ、1279年(弘安2)来日した。鎌倉の建長寺に住し、1282年円覚寺を開創。北条時宗をはじめ、鎌倉武士などの真剣な参禅を受け、その教化に尽力し、精神的に多大の影響を与えた。法嗣に高峰顕日・規庵祖円らを出し、一派を仏光派と称する。五山派の主流をなす夢窓疎石は高峰の法嗣である。

高峰 顕日

こうほう けんにち:1241 – 1316

高峰 顕日

鎌倉時代の臨済宗の僧。仏国派の祖で、南浦紹明とともに天下の二甘露門と称された禅僧。号は高峰。別に密道と称する。諡号(シゴウ)は仏国禅師・応供広済国師。後嵯峨天皇の皇子。東福寺で円爾弁円や建長寺で兀庵(ゴッタン)普寧に参じ、下野那須(シモツケナス)の雲巌寺を開創。無学祖元の来日を知り、建長寺で参じ法を嗣いだ。また一山一寧にも参じる。鎌倉の浄妙寺・万寿寺・浄智寺を歴住し、建長寺の住持となり、晩年は雲巌寺に帰る。参禅を請う学徒は多く、東国に禅宗を宣揚し、法嗣に太平妙準・夢窓疎石・天岸慧広らを出して門派を形成し、夢窓とその派はのちの五山派を代表する勢力となった。

伊藤 若冲

いとう じゃくちゅう:1716 – 1800

伊藤 若冲

江戸中期の画家。京都の人。別号斗米庵(トベイアン)。
京都錦小路の青物問屋の長男として生まれ、家業のかたわら、狩野派、光琳派や中国の元代、明代の画法を学んだ。四十歳で家業を弟に譲り、生涯妻子を持たず、絵画の制作に専念し写生的、装飾的な花鳥画と水墨画に異色の画風を作り上げた。数十羽の鶏を飼ってその形状を写し取ったという逸話があり、身の回りにいる動物や鳥獣魚介、植物、野菜を題材にした作品が多い。
若冲画の特色は対象の形態を観察凝視し、そのものの緻密・濃密な細部を写しとり、傑出した想像力で本質を見抜き、主観性の強い画面に再構成し直して、独創性に満ちた空間表現と装飾効果を生み出した点にある。  若冲の号をつけたのは、その人柄をよく理解し、愛していた相国寺の僧、大典禅師・梅荘顕常(バイソウケンジョウ)であったと言われている。『若冲』とは「老子」という書にある
大盈(ダイエイ)は冲(ムナ)しきが若(ゴト)きも、
其の用は窮(キワ)まらず

に出ており、
大きく満ちているものは何もないように見えるが、
その働きは窮めることができない

という意味で、絵のほかは何も出来ないという若冲の天才を的確にいい当てている。『斗米庵』という号は作品一点を米一斗と交換したことによる。若冲は世話になった相国寺に、二十四幅の「動植綵絵(ドウショクサイエ)」(明治期に宮中に献納され御物となっている)、釈迦、普賢、文殊の「三尊画像」を喜捨し、金閣寺には水墨画の大作「大書院障壁画」を描いた。